京の小径

京都のローカルな話題の備忘録。

下鴨神社 ー新しい日本を寿ぐ迎新展ー 鴨長明の和歌

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遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

さて、下鴨神社の舞殿では、

SYO ARTISTの吉川壽一氏による「新しい日本を寿ぐ迎新展」が

開催されていました。


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正面は令和の文字と八咫烏と今年の干支。

 

令和の文字も心なしかうさぎのように跳ねてます。

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神々しい八咫烏

 

ぐるっとめぐる干支の書。
干支の下には下鴨神社ゆかりの鴨長明の和歌が添えられています。

それでは、ひとつひとつ和歌をよんでまいりましょう。


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はつせ山 鏡のひびきに おどろけば

澄みける月の 明け方の空

 

※はつせ山 「初瀬山」 奈良県桜井市にある初瀬。長谷寺があるところ。


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ながめても あはれと思へ 大かたの

空だにかなし 秋の夕暮


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夜もすがら ひとり深山の 槙の葉に

曇るの澄める 有明の月


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人は(も)みな かつらかざして 千早ぶる

神の美あれに あふ日なりけり

 

※「あふひ」というのは

葵(あふひ)と逢ふ日(あふひ)をかけてるらしいです。

祭りの日の「葵」にかけて「逢う日」

賀茂祭葵祭)は昔の人たちにとって、恋人と逢う祭りだったようです。

※「みあれ」は四月に賀茂祭りに先行して行われる神事のことらしいです。


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袖にしも 月やどれとは 契りおかず

涙はしるや うつの山ごえ

 

※うつは「宇津」 静岡の宇津ノ谷。


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いかにせむ つひの煙の 末ならで

立ちのぼるべき 道もなき身を

 

※つひの煙 「終ひの煙」 


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みればまづ いとど涙そ もろかづら

いかに契りて かけはなれけむ

 

※もろかづら 「諸葛」桂に葵をつけたもの。賀茂祭葵祭)に用いるそうです。

神職につけなかった鴨長明の嘆きが伝わってくる歌ですね…。(涙)

 

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たのめおく 人もながらの 山にだに

小夜ふけぬれば 松風の聲

 

※「ながら」は長等山のこと。(滋賀県大津市にある。私には馴染みのある地名)


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石川や 瀬見の小川の 清ければ

月も流れを たづねてぞすむ

 

※この歌のエピソードが「無名抄」にあって

今、鴨社資料館秀穂舎でその一節の解説があるのですが、

それがなかなか興味深かったです。

当初、「瀬見の小川」は、歌の先生に認めてもらえなかったらしいです。

でもその後、認められたのですが、

長明が詠んだ歌合せの会が小さなもので、

その歌の先生(お名前忘れました💦)が大きな歌合せで

瀬見の小川を使ったことから、有名になったらしい。

それで長明のお父さん(お兄さんだったかも?うろ覚えですみません)が

たいそう悔しがったとか。


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ながむれば 千千にもの思ふ 月にまた

我身ひとつの 峰の松風


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枕とて いづれの草に 契るらむ

行くを限りの 野べの夕暮


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松島や 塩くむあまの 秋の袖

月はもの思ふ 習ひのみかは

 

以上、鴨長明(かものながあきら)の歌でした。

↑正式には「ちょうめい」ではなく、「ながあきら」と読むらしいです。

この迎新展では、月を詠んだ歌が多いです。

そして、長明の歌は寂しさや哀れさを感じる歌が多い気がします。

彼はやっぱり神職に付きたかったんでしょうね。

その後、職を求めて鎌倉にも行ったそうですが、

実朝にもふられているし。

でもそういう経緯がなければ、

今も伝わる「方丈記」は生まれなかったのかもしれませんね?

 

(おまけ)
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兎の大絵馬


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京阪電車版もありました。

 

 

こちらは令和六年辰年度の「迎新展」です。

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